猫とダンス5

食事はあっという間に終わってしまった。
ボリュームのある内容で、スープの干し肉は良い感じに戻っていて初めての食感と味に夢中になった。
質素だけれど滋味豊かな味は鷹由紀の口に合った様で残さず、食べにくい物も無かった。食べながら気が付いた事だが、どうやら食事だがヨーロッパの山の方に似ている様に感じる。まだ初日で決定的ではないが、ハッシュポテトにジャムを付けたり、干し肉をスープに入れたりするのは以前研修旅行で訪れたドイツやスイスなどで食べた覚えがあった。
もしこのまま似ている感じで有れば食事では苦労する事はなさそうだ。
お腹も一杯になり、ルルの後ろについて鷹由紀は食事の後片付けを手伝っていると、徐々に手元が暗くなって来ていた。
「ちょっと失礼?」
ルルは一旦手を止め、部屋のランプを付始める。
「この国は今日が落ちるのが早いからね」
窓の外を見ると先程まで日が出ていた青空は一遍、淡いピンクパープルの色に変っていた。
「黄昏時だ…綺麗」
窓の外がピンク色とも紫色ともなんとも言えない美しい色彩で彩られている。
今まで竈の近くに居たからその炎の明かりのお蔭で分らなかったが、外は徐々に夜に向かっている様だった。
日が暮れ始めると沈むのは早かった。窓の外の草原はあっという間に真っ暗になり、ルルは一つの窓を残して全部戸締りをした。
ルルと鷹由紀が居るテーブルの上にはランプがあり明るかったが、どうしても部屋の隅までは光が届かず、暗闇が鎮座する。
まるで闇が住んでいるかのように薄暗く、窓の外は更に漆黒の闇が覆っていた。
都会に生まれ暮らしていた鷹由紀は本当の暗闇と言う物を経験した事が無い。
少し暗闇が怖く感じていた。

ルルは食後にお茶を淹れると、先程、鷹由紀が読むのを辞めた「異世界ガイドブック」を差し出した。
「何?」
「鷹由紀、本はどこまで読んだ?」
「1ページ目だけだけれど」
「今日中に2ページ目まで読むようにと係員に言われているんだ、疲れているところ悪いけれどそこまで読んでくれないか?」
「ん…別にいいけど…」
本当は読みたくなかったが、鷹由紀は本を受け取った。
「何?…何か重要な事でも書いてあるの」
ルルは神妙な顔で頷いた。
「とても大切なことがね、特にこの本の2ページ目は絶対に今見なきゃいけない」
「何それ?何か知ってるんだったら今ルルさんから教えてよ」
「ダメ、私も知識としてだけしか知らないし、間違えていたら困る、ちゃんとその本を読んで正しい知識を知って欲しいんだ」
そう言われ鷹由紀は渋々本を開いた。
(あーあ、今日はもうこの本を読みたくなかったのに…)
勘だが絶対にロクでもない事が書かれているに違いないと鷹由紀の危機管理能力がそう言っているのだ。
あまりに色々な事があり過ぎて、脳がこれ以上の情入手を拒絶しているのを感じているのだが、恩人のルルが言う事に逆らえるはずも無く、鷹由紀は先程愕然とした冒頭部分を見ない様に素早く捲ると二ページ目に目を通した。
そこには到着翌日の心得が記されているようだ。
「読んで」
ルルに促され鷹由紀は文字を追い出す。
『この世界に来た私達が自動的に言葉を理解する事は冒頭部分でお知らせしたがもう一つだけ知っておいて欲しい事がある。
それはこの世界に来て初めて迎える朝に起きる現象だ。
この本を読んでいる貴方は翌日目が覚めると、頭上に耳が生えてくるだろう。
そうだ、彼らの生えている耳が私達の頭上にも生えてくるのだ。
何故かの理由は不明だ。
憶測だが、異世界人である私達の身体が此方の世界に適応するのだと言われている。耳は4つ、今持つ耳が消失する事は無い、安心してくれたまえ。』
「ええええええええええええええええっ!!!!!!!」
鷹由紀は絶叫した。
「耳!!耳!!僕も耳が生えるんですか??!!」
「そうみたいだね」
ルルは驚愕している鷹由紀を見て苦笑いを浮かべていた。
「マジっ!つうか、本当になんつーんだよ……安心してくれたまえって、内容が衝撃的過ぎて安心出来ないって言うか……御都合にも程があるって言うか……耳生えたら本格的に帰れないじゃないかっ!」
鷹由紀は本を投げ出し、テーブルの上に突っ伏した。
もう気分的にはお茶一滴も飲めない。
そんな感じだ。
じわじわと四隅から元の世界に戻る方法を黒く塗りつぶされているそんな錯覚を覚えてしまうほど、この世界に来て自分的に理不尽な事が多い様な気がする。
「これって兵糧攻め?いや四面楚歌か前門の虎後門の狼?もうなんなんだよーーー!!」
思い切りよくテーブルに突っ伏した。
とどめだ。
今日の鷹由紀に最後の強烈な止めが打たれた。
(幾ら前向きで頑張っていても、これはキツイよ…ダメだって色々急激に物事が起こり過ぎだよ)
数々の厳しい現実に鷹由紀は日が終わると共に気分が落ちた。
瞳にはいつの間にか薄らと涙が浮かび始めていた。
強烈なショックが今まで知らず知らずの内に踏ん張っていた鷹由紀の心を激しく揺さぶった。
もう駄目だ、と思った端から瞳の奥から涙が量産されてくる。徐々に目頭が熱くなり、あっという間に鷹由紀の視界がぐにゃりと涙の水分によって歪められた。
泣いていると感じると、もっと悲しくなった。
目を閉じると、瞳に溜まっていた涙が幾つもぽろぽろと零れ落ち、一度堰を切った涙と感情は溢れていった。
頬に幾つもの涙が滑り落ち、ひっくとしゃくりが上がってくる。
せめてと思い泣き声が零れ落ちない様に口をつむいだ。
ここで泣いたらルルに迷惑が掛かるから。だが、ルルは机に突っ伏し動かなくなってしまった鷹由紀のその異変を敏感に感じ取り、そっと静かに鷹由紀の隣に座ると、背を優しく撫でた。
「鷹由紀、大丈夫?」
首が横に振られ、微かに肩が揺れる。
背中が寂しさに押しつぶされそうになっているのが手にとって分った。
「……辛いね」
一言だった。
だが、その一言が今の鷹由紀の状況全てを語っている。
「ルルさん……っ、ルル………っ!!!」
机から顔を上げると、寄り添ってくれているルルに抱きつき、ルルは何も言わずに鷹由紀を抱きしめた。
「うえっ…っ…っ……ぇっ…っ」
鷹由紀はルルのしっかりとした腕に抱きとめられ、しゃくりを上げながらみっともなく泣いた。今まで我慢していた分、泣きだしたら止まらなくて、子供の様に何十分も泣いてしまう。
ルルは鷹由紀の気が済むまで抱きしめてやっていた。何者からも護る様に覆いかぶさる様に抱きしめ。子供をあやす様に何度も何度も背中を撫でていた。
それが功をそうしたのか、暫く立つと鷹由紀の気持ちも落ち着いて来た。
泣き声がシャクリだけに変わり、やっと顔を上げた。
目や鼻を真っ赤にさせて、しゅんと萎れてうなだれている。
「ごめんなさい……泣いちゃって」
「いいって、気にしなくて…それよりも、もう落ちついた?」
「ん、……なんだかスッキリした……おかしな話だけれど」
「涙は気持ちを浄化するからね……ずっと我慢しているより良いよ、泣いた方が」
「……そうかもね」
えへへと照れ隠しで笑った。
ルルは涙が残る頬を自らの袖で拭ってやり、痛々しそうな顔をする。
「それと、ごめんね、耳の事黙ってて」
「やっぱり知ってたんだ」
「うん」
ごめんと、重ねて言うルルに鷹由紀は首を振った。
「別にいいよ、だってルルさんの所為で耳が生えてくる訳じゃないし」
多分気を使っていたから黙っていてくれたんでしょ。
鷹由紀はなんとなくそう感じていた。
「本にはなんて?」
「耳が生えるけれど気にするなって…」
「気にするよね」
「うん、驚いた」
コクリと頷く鷹由紀の頭をルルは手を伸ばして慰める様に撫でた。
「辛い現実だね……鷹由紀は頑張って受け入れようとしているのに性急過ぎるね」
何度も鷹由紀の背をルルは摩ってくれた。甘えさせてくれているのだろう、鷹由紀はそのままルルの胸に寄り掛かる。
「僕さ……この世界になんで来たんだろう…ルルさんは分る?」
「……分らない」
「……だよね、だって僕も分らないし、本にも分らないって」
乾いた笑いを浮かべた鷹由紀にルルが気遣う様に身体を撫でてくれる。
「おそらくだけれど、本に知らないと書かれたら、この国でも知っている人はいないと想う」
「だよねー、そう書いてあるもん、この本に」
脱力するキャットガールの絵が書いてあるガイドブックを指さした。
「直ぐには納得できないと思う、でもそれでいいと思うよ、ゆっくりと慣れて行けばいいんだよ鷹由紀」
「うん…ありがと、ルルさん」
「それにね、今言うのは現金かもしれないけれど、耳さえ生えれば鷹由紀を町に連れて行ったり、異世界人が居る場所にも連れていけるよ、元気になったら連れて行って上げるから、そんなにガッカリしないで…」
「…他の異世界人に会えるの?」
「うん、鷹由紀と同じ境遇の異世界人が集まるカフェみたいな場所があるんだ、住む場所が無かったり、お茶をただ飲み行ったりするね、そこに行けば色々話を聞けると思う」
「耳が生えたら行ける場所か…」
元普通の人達が、猫耳が生えた時の衝撃話しなんか聞けるかもしれない。
どんな生活をしているのか、最初はどうだったのか?
耳が生えなければいけない場所。
なんだか皮肉に感じるけれど、それさえも受け入れていかなくてはいけないのだ。
もう割り切ろう。
決めた割り切る。
一人じゃないし、どうやらルルが一緒に居てくれる。
そう思うと心強い。
勘だけれど、ルルは鷹由紀を見捨てたりしないと感じた。
(僕まるっきりひよこだ、初めて見た人を親に思うみたいな……)
「ルルさん、迷惑だと思うけど、僕が一人立ち出来るまで一緒に居てもいい?」
「何?プロポーズ??」
「……そんなんじゃないけれど…」
シュンとしてしまった鷹由紀にルルは苦笑いを浮かべた。
「ごめん、こんな時に茶化すべきじゃないよね、勿論私からお願いしたいくらいです、鷹由紀がもういい、一人で居れるって言うまで一緒に居るよ」
「ん、なんか安心した」
ルルから貰った言葉は鷹由紀の心の中に、土が水にしみ込むように広がっていった。
ルルの身体に遠慮なく鷹由紀は持たれ掛かると、すっかり冷めてしまったお茶に手を伸ばした。
泣いた後で気だるくなった身体でカップを両手で掴むと、中身を一気に飲み干した。
「泣いたら、喉乾いちゃった」
「水分が出ちゃったんだね、それよりも身体もだるくなっているでしょ、そろそろ寝る?色々あったし、明日は仕事を休むから鷹由紀に一日付き合うからさ」
泣いた所為か身体もだるいし、色々疲れた。
鷹由紀はコクリと頷いた。
「……スミマセン……じゃあ、遠慮なく……」
「ベッドは一個しかないけれど、私と一緒でいい?」
「……勿論…あのベッド狭くしてしまってスミマセン」
「私のベッドは大きいから気にしない」
ルルはテーブルの上のランプを消すと、鷹由紀を伴って部屋の反対側にあるベッドに誘った。今日買い物してきた袋から真新しい白いネグリジェの様なパジャマを渡される。
「まだお土産見せてなかったけれど、お土産の一つ」
「これパジャマ?」
「そう、一枚着て寝るんだよ」
ズボンが無いんだ。
下がスースーしないだろうか、寝相でパンツが全開になるんじゃないかと色々心配はあったが出て来たが、ルルはこれを鷹由紀の為に買って来てくれていたのだ。
嬉しかった。
「ルルさん…」
「なに?」
「…ありがと」
「とんでもない」
ちょっと掴みどころの無い性格だけれど、凄く優しいルルの気遣いに感謝しつつ、鷹由紀は疲れででふにゃふにゃになりつつある身体をなんとか動かし、パジャマを着るとベッドの中に潜り込んでいった。
ルルはそんな鷹由紀の姿を見送ってから自らも着替えベッドに入る。
鷹由紀はルルに遠慮しているのかベッドの隅っこで身体を縮こまらせて眠っていた。
「まったく……気使いなんだね」
隅っこにいた身体をルルは持ち上げベッドの中央に寄せると、ルルは直ぐ隣に潜り込んだ。
自分を守る様に縮こまっている鷹由紀を抱き寄せようとしたが、朝起きてルルに抱かれたまま朝目が覚めたらきっと烈火の様に怒るだろう。
ルルは苦笑いをして、諦めるとすやすやと既に深い眠りに落ちている鷹由紀の頬に口づけた。
「夢だけは幸せな夢を……鷹由紀」