君を我寵愛せし 1

姉アニェスが亡くなったのはほんの数日前だった。
婚礼まで後数日となっていた何時もと変わらぬ朝。朝露に濡れた庭の花々が太陽が昇るとと共にふくよかな香りを放ち、早朝独特の澄み切った凛とした空気に屋敷中が包まれていた。
既に婚礼日まであと数日となっていた姉は当日までスケジュールが詰まっていて、この日も朝早く使用人が目覚めのお茶を手に姉の部屋へと行った。何時もなら囁く様な挨拶と共に、姉と使用人の楽しげな声が聞こえてくるはずなのだがその日は違っていた。部屋に入った使用人が姉のベッドを覗きこむと直ぐに悲鳴が上がった。
姉がベッドの中で、肌色を失い既に事切れていたからだった。
ベッドの中の姉はまるで自分の死が分っていたかのように胸の上で神に祈る様に手を組み合わせ、微笑んでいるかのような表情で夢見る様に死んでいた。
既に息を引き取って時間が経っているのか、身体は冷たく、肌は何時もよりも白く既にこの世の者ではないとすぐいに分ったと言う。
使用人が慌てて部屋を駆け出ると、屋敷内は喧騒に包まれた。
医者を呼ぶ声と母の泣き声。父の怒号が響いていた。
僕は家令の一人によって慌てて起こされ、寝ぼけた頭で必死に何が起きているのかを理解するのだけで精一杯だった。
「アニェスが死んだ?馬鹿な」
ベッドの上でそう何度も呟いたのを覚えている。
死因は不明。
毒物での殺害も予想され調べられたがその様な事は一切なく、突然心臓が止まり死んだと医師から告げられた。残念ながら僕の一族では稀にその様な事が起きる。それが偶々今回婚礼前の姉に出てしまったと分った両親は落胆し涙にくれた。
姉は穏やかで優しい人だった。そんな姉を両親は溺愛した。三兄弟の唯一の女の子。
誰からも愛され、僕はその姉に溺愛され育った。5つ年上の兄が知らせを聞き自らの屋敷から馬を飛ばしやってきたが、この事にどう対処していいのか分からずに、初めに姉を見た時は棺に縋って泣いていた。
前の晩まで幸せに包まれていた我家は一気に不幸のどん底に落とされたのだ。


それから数日。
今日が本当なら姉の輿入れの日だった。
だが我家では華やいだ雰囲気は影を潜め、喪に服している為に黒一色に染まっていた。
姉は既に荼毘に伏され、僕達一家は今日を静かに一日過ごしている。
僕ことブノワ・レシェールは部屋の窓から姉が好きだった白薔薇を見つめていた。
亡くなる前、姉と最後に会話を交わしたのが僕だった。
既に夜着に着替えた年頃の姉は真っ白なネグリジェを着たあられもない姿で僕の部屋へやって来た。
「ブノワ、今日は私と一緒に夜更かししない?」
「今日は眠いよ僕。アニェスだって明日も早いんでしょ?それに、そんな恰好で僕の部屋に来たら怒られる」
「まぁ、ブノワったらまるで家庭教師の様ね何時からそんな口煩い事を言う様になったの?」
「心配だよ、そんな無邪気なアニェスがお嫁に行くなんて」
ネグリジェの姿を咎めたが姉は全く耳に入っていないのか、勝手に僕を押しやり部屋に入ろうとする。
偶にこの人は無邪気な子供の様な事をしでかすのだ。今までは婚姻の支度で忙しくそんな素振りも見せなかったのだが、そろそろ疲れとストレスがピークなのだろう。
部屋に入ろうとする姉を僕は必死に押し出した。
曲がりなりにも数日後は妻となる人だ。夜夫以外の人と過ごす等あってはならない事だ。
だがそんな思いも姉にとっては余計なお世話な様だった。僕の脇腹を擽り、なんとか部屋に入ろうとしていた。
「こらっ!アニェス。父上と母上に怒られるよ!」
「だってもう少しでブノワと別れてしまうのだから、少しでも一緒に居たいの」
先程までの態度とは一変、ふと視線が合うと瞳からは深い憂慮の色が見え隠れしていた。
どうしたのだろう、マリッジブルーなのだろうか。一抹の心配が過った。それにたった一人の姉の頼みだ。
僕が断れるはずが無かった。
「アニェスにそんなこと言われちゃうと断れないよ」
苦笑いを浮かべると、姉はさっさと部屋に入り僕お気に入りの長椅子に座った。そして隣に座ってとクッションを叩き、僕はそこへ何時もの様に素直に座った。
思えばこうやって姉と戯れるのも後数日で終わってしまうのだ。
本当なら夫以外の人とアニェスはもう夜を過ごしてはならない身だが今だけは許して貰おう。
姉と僕は互いの身を寄せそして、きゅっと手を握り合った。
「本当に私達似ているわね、幼い頃と比べたら少しだけブノワの方がすっきりしているけれど」
「兄弟だもん当り前だよ」
「あら、でもお兄様はお父様似で、私達とは違うわ」
確かにそうだった。
嫡子の兄はブラウンの髪と若草色の瞳を持ち雄々しい父に瓜二つだが、僕たちは母似でプラチナブロンドの髪を持ちアニェスは美姫として評判だった。
「僕は出来るなら兄上の様になりたかったけれど」
騎乗した姿等はほれぼれとする兄を思い出すと姉が不満そうに僕を見た。
「私と似ていて不満なの?」
「そうじゃないけれど、兄上は本当にカッコいいから、ないモノねだりなのかな?」
「確かにそうね兄上は素敵だけれど、ブノワは私と一緒でなくてはやっぱりダメ。貴方は綺麗だし何時も貴方を見るだけで幸せになるの貴方贅沢よ、私に似て兄上に似る事まで求めるなんて」
「アニェス僕を褒めてる様で、結果自分が綺麗って褒めてるよ」
「ええそうよ、何か悪い?」
ハッキリとナルシストだと宣言した姉は僕が目を丸くすると悪戯っ子の様に笑った。僕の事を贅沢と言ったが、女性が憧れるモノ全てを持っている様な姉こそが贅沢者の様な気がする。
姉が僕の顔に顔を寄せ深く溜息をついて呟いた。
「私と同じ顔をした弟の貴方を置いてこの家から出るのが辛いの。だって貴方が生まれてから私達はずっと一緒だったもの。まるで私は半身を引き裂かれる様よ。ブノワ。貴方はずっと私の弟。もし私が居なくなって辛い目にあったら必ず私を頼って来てね一人で悩まないで、絶対に私の元へ来て」
細い手からは力強い意思が伝わる。僕は思わずその手に縋るとそっと胸に抱きこみ頷いた。