君を我寵愛せし 9

「なんて事してくれたの?!」
それはアンヌの声だった。
クレマンの隣に居たアンヌを見てみると胸元と美しいドレスが真っ赤なワインによって染め上げられていた。
年若い給仕がアンヌの怒号に顔を真っ青になって震えている。
「折角のドレスがっ!貴方どういうこと!!!どうしてくれるの!!この日の為に特別に誂えたモノなのよ」
それは烈火の如く怒り方で、横のクレマンがなんとか宥め様としてもアンヌの怒りは留まらない様だった。
金切声で怒りまくる人を初めてみた僕は、その剣幕に驚いていまい暫しの間ポカーンとしてしまったけれど、これではいけないとすぐさま気が付いた。
食堂内はアンヌと給仕に視線が注がれてしまい今後何を言われるのか分かったモノではない。
今にも泣きださんばかりの給仕にアンヌがとうとう手を上げ、頬に平手を下そうとした時、僕は慌てて身体を乗り出し二人の間に割って入った。
パチン!
と景気の良い音共に、頬がカッと熱くなる。
引っ叩かれたのだ。
結構痛い。
ジンジンと痺れる頬を手で庇い、他の人に給仕を下がらせるように視線で訴えると、僕を叩いた張本人であるアンヌを見た。
震えて驚きの目で見つめるアンヌに僕はポケットからハンカチを出す。
僕の頬も痛いけれど、貴婦人であるアンヌが濡れたままでは頂けない。
「失礼をして申し訳御座いません。まずは此方で濡れた胸元をお拭き下さいアンヌ様」
「え……?」
「御美しいアンヌ様は何を纏っても素敵だと思いますが、そのままですと風邪を引いてしまいますから、クレマン公爵様、アンヌ様を一度控室へ……代わりのドレスをご用意することは?」
「私のドレスでよいかしら?」
そう手を上げたのはサラだった。
「さぁアンヌ一度下がろう…ドレスをどうにかしなくては……」
クレマンは面喰って動けないアンヌの腰を抱きサラと共に食堂を去って行った。
シンと静まりかえってしまった室内。
僕は、どうしたものかと物見遊山していた前公爵のドニの前に立ちにっこりと笑って見せた。
「お義父様如何でございましたか?このブノワの公爵夫人としてのテストは」
今度こそドニが驚いた番だったが、その驚きは一瞬で納められ、ニヤリと笑う。
「合格だ」
ドニは全ての事を一瞬で理解しようだった。
よかったと僕は内心胸を撫で下ろす。
このままだと公爵家の恥になってしまう。父からも姉からも貴族は失態を嫌うと言い聞かせられてきたのでこれで切り抜けられただろうか。
少し心配で義父であるドニを見ると、僕に向かって小さく頷いてくれる。
「騒がせて申し訳無かった。これは私達引退者の新公爵と夫人へのちょっとしたテストでね、座を盛り下げてしまい申し訳無い。さぁ、新しく私の秘蔵の酒を出す!皆元通りに」
その言葉に食堂は一気に色めき立った。
ドニの秘蔵に心引かれたが、僕の裾をドニは引っ張り耳打ちしてきた。
「ここは私に任せてブノワ殿も一度下がりなさい。頬を十分に冷やしてくるように」
実父の様な暖かいまなざしが僕を包む。
このまま責任を持って最後まで居るつもりだったけれど、義父であるドニの云う事を聞く事にした。
実際頬が痛いから。
「本当に良い夫人を持ったにも関わらずあいつは……」
下がった僕には聞こえなかったけれど。

頬を抑えて取敢えず自室に戻ろうとしている時に、アンヌに付き添って出ていったクレマン公爵とばったり遭遇した。
「ブノワ大丈夫だったかい?」
僕の姿を見つけるや否や走って来てくれたけれど。
んーなんか消化不良みたいな感じがする。
もやもやでもむらむらでもない、なんだか嫌な感じ。
でもそんな僕の気持ちを知らないクレマン公爵は僕が布で冷やしている部分にそっと手を当てた。
「平気です、傷では無いですし」
「すまなかった、アンヌがこんな事をしてしまって」
「いいえ、別に気にしていませんが……あのクレマン公爵様」
「なんだい?」
「アンヌ様の事に関して口を出すつもりは御座いませんが、あの様な事があると公爵家としてあまり良い事だとは思えません。出来れば今後あの様な事が無い様に、アンヌ様へお話して頂けませんか?」
「……なにを?」
「愛妾でいらっしゃるんでしょう?」
息を飲んだ公爵が僕を見つめた。
「僕も貴族の一員ですから、理解はあるつもりです。もし彼女と公爵家の跡取りをお作りになるおつもりでしたら是非に今から公爵家の一員としてしっかりされる事をお伝えした方が、今後産まれるお子様にとっても良いことです」
僕に気を使わないで欲しいけれど、先程の様な事はごめんだった。
出来れば公爵家で静かに暮らしたい。
二人見つめあっていると
「クレマン〜」
衣擦れの音共にアンヌがやって来た。
僕が居ると言うのにまた甘えたように手を絡ませ、僕を無視している。
早く去りたい。
彼女が視界に入るとそれしか思えなくなる。
「ねぇ、クレマンそろそろ食堂に戻りましょう」
「いや、今はブノワと」
「ブノワ様はお部屋にお戻りになるのでしょう」
僕を叩いた謝罪もないのかと、大きな溜息と共に、その無神経さが恐ろし。
「ええ、僕は下がりますのでお二人で」
「ちょっと待ちなさいブノワ、アンヌ離れろ!」
「なんでですの?」
なかなか離さないアンヌから逃れようと揉めている隙に、僕は走って部屋へと戻って行った。